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MORI YOSHIDAのお菓子を作る吉田守秀シェフ

情熱溢れるフランスへのリスペクトと想い。菓子職人「MORI YOSHIDA」(モリヨシダ)吉田守秀 -特別インタビュー-

2024年の冬、お菓子界の中で大きな話題を呼ぶお店が東京都・中野に突如オープンした。その名は「MORI YOSHIDA」。日本で輝かしい活躍をし、世界へ。そして日本へと再び帰ってくる形で、吉田シェフのお菓子がいよいよ食べられるとスイーツラバーたちは大いに歓喜したし、筆者である私もそのニュースには胸が躍った。

初めて読む人に向けて、吉田シェフとはいったい何者なのか? そしてフランスで認められた吉田シェフのお菓子の“美味しさの本質”とは何か? シェフのお菓子に対する熱い情熱とアティチュードを取材。そして未来のパティシエたちに向けたメッセージもお届けしていきたいと思う。

パリジャン達の生活に溶け込んだ「MORI YOSHIDA」。逆輸入の形でなぜ今日本へ?

モンブランを作る吉田守秀シェフ

オーナーシェフである吉田守秀氏は、静岡県の菓子店で生まれ育つ。三男坊だった吉田シェフ。長男、次男は美大や薬科大など一流大学の道へ行くなど、お菓子とは別の世界だったこともあり、家業を継ぐ運命は必然的に吉田シェフのもとへとめぐってきたという。当時はお菓子の知識も少なく、フランスへ行くまでは新年を祝う宗教的なお菓子であるガレット・デ・ロワの遊び方も知らなかったそうだ。

ただし、仕事に向き合うことには一生懸命だった吉田シェフ。5つ星ホテル「パークハイアット東京」をはじめとする名店での勤務を経て、自身のお店「パティスリー・ナチュレ・ナチュール」を開業する。その後「TVチャンピオン2」のケーキ職人選手権で連続優勝を果たし、日本中に知られる名パティシエに。その後はお店を閉め、フランス・パリへと渡り「MORI YOSHIDA」のオーナーシェフとして拠点をフランスへと移す。

フランスでの出店は吉田シェフにとっても大きなチャレンジだった。パリでも屈指の高級住宅街である7区に位置する場所で、開業から今年で11年目になる。

吉田シェフ「4区のマレ、5区のカルチェラタンの地区を中心に、100件以上の物件を見る中で、何度通っても、何度見ても“ここが面白いな”と思った場所がありました。それがこの7区のブルトゥイユ大通りに面し、以前ミシュランの事務所があった場所です。凄く閑静なところで、当時開業の相談をしていたジャック・ジュナン氏にもおすすめされず、確かに人が多く通るような場所ではありませんでした。

フランス人の不動産屋さんに“フランスの建物は石が、人を決めるんだよ”と言われて、最終的にこの場所に決めました。緑豊かな大通りが魅力的で、全面のガラスを通して見える、四季で移い豊かな街の景色に大きく魅了されました。」

こうしてフランスでお店を開き、今では地元の人に愛されるお店となった今。逆輸入の形で日本へ。フランスと日本を行き来しなければいけない大変さもさることながら、なぜこのタイミングで日本での開業だったのでしょうか? そこには、縁と縁の結び目がありました。

階段に立つ吉田守秀シェフ

吉田シェフ「日本からフランスへ渡り、フランス人たちに認められるようになり、フランスで本の出版もしました。次のステップで何をしたらよいか?と考えても何も思い浮かばず、いわゆる“燃え尽き症候群”になっていました。

パリで“お店をOPENさせる前”の気持ちと“今”では、こうなりたいと描いていた目標を超えてしまったんでしょうね。次の目標が見えなくなったタイミング。それがちょうど2022年ごろ、約2年前でした。渋谷スクランブルスクエアの出店契約も満期で終了でした。

MORI YOSHIDAの店内に立つ吉田守秀シェフ

多くの会社さんから、出店の誘いがありました。どこかと一緒にパートナーを組んでやると、自分達の本当に伝えたいクリエイションや美味しさをお客様に届けることができない。だから、自分たちの手でやろうと思ったんです。

そして、今回出店する場所がもともと設計事務所で“ここでやれたらいいな”と思っていました。そして偶然にもいいタイミングで、このユニークな構造の場所を使えることになりました。」

フランス菓子の本質と「今」を「MORI YOSHIDA」のフィルターを通して描く

MORI YOSHIDAの調理途中のお菓子

フランスに長く住み、現地の食材に出会い、空気を吸い、フランス人の生活と文化に根付くフランス菓子を知ることに傾倒した吉田シェフ。王道であり、お菓子の根幹にある「クラシック」を組みながら肌で感じた「今」の流れをお菓子に昇華させていく。ブリオッシュ生地にシロップやラム酒を効かせた伝統菓子でもあるババ・オ・ラムをアレンジした「ババ・トロピック」は、「MORI YOSHIDA」のスペシャリテだ。

日本的な素材と言われるユズや抹茶といった食材はあえて使わなかった。「日本人である」というアイデンティティよりも、吉田守秀というアンデンティティを作ることに神経を注いだ。

そんな吉田シェフがこの日本で表現するのは、「フランスの今」。それはSNSが発達し新しく生まれた流派のフランス菓子でもなく、ニホンライズした現代日本の新しいケーキでもないと吉田シェフは話します。

吉田シェフ「まず今のフランスでいうと、ピエール・エルメ氏が作り上げてきた流派がずっと根強くありました。そこから、今では世界的スターにもなっているセドリック・グロエ氏やラデュレのジュリアン・アルバレスが“SNSを活用するとこうなるんだ”という新しいビジネスモデルを作り上げました。一方で僕は僕で、お菓子が本当に好きで正しいフランス菓子とは何かと向き合い続けています。季節や旬の食材を大事にしながらも向き合って表現していく。それがモリヨシダのお菓子です。

MORI YOSHIDAのシュークリーム

一方で今回の日本のお店での開業において、ラインナップの中にシュークリームがあります。実はこれは日本のお菓子で、日本では『シュー・ア・ラ・クレーム」』という名前でフランス菓子のように販売されているシュールな現象があります。ではなぜモリヨシダでシュークリームを出すのか? それは今このシュークリームというものがフランスではポピュラーになってきているから。“日本フェア”みたいなものがフランスでもあります。フランスで日本生まれのこのお菓子が人気あるんだということを伝えたい、その想いもあってこの商品をラインナップに加えました。

日本のフランス菓子は70年代、80年代にフランスへ行った先輩たちが日本に持ち帰り、それがフランス菓子とされています。時代とともにその文化は時代とともに変化していて、今日本にあるフランス菓子がフランスにないことも多いですa。その中で、今のフランスをリアルに切り取ったものを出して伝えていきたい。

フランスでは定番が重宝されます。毎日食べたいものをなんだろうか?とふと考えると、自分が大好きなサッカーを見ながら、何も考えず食べられるものを並べておきたいし、食べさせたいし、何よりも輝くものにしていきたいと思っています。」

見た目よりも最も大事なのは「味」である

MORI YOSHIDAのモンブラン

美しいクリエイションのモリヨシダのガトー達。吉田シェフが大事にしているのは見た目よりも「味」だという。お菓子を形から入ると、無理にその形になってしまう。そのための飾りになってしまうことが多い。

食べさせたい味、食べさせたい食感、食べさせたい香り、口の中で感じさせたい味の変化。それらの要素が収斂していくことで出てきたあとに「形」に入るという。

エクレア(カフェ)、パリブレスト、ババトロピック、ベージュ、モンブランは本国でも人気のあるラインナップ。麗しいモンブランの絞りは、口どけと食感を計算され絞られ、ババトロピックじゅわっと広がるそのシロップの舌触りと生地の口の中で弾けるような食感がよく表現されている。

そして最新のインスタグラムの投稿では“フランスにも負けない日本の美味しい食材を用い“という言葉が印象的だった吉田シェフ。北海道の乳製品の美味しさが凄く印象的だったんだとか。

吉田シェフ「放牧の仕方だったり、乳牛の育て方のプロフェッショナルさに感銘を受け、フランスにも負けないお菓子をこの北海道の「乳」を活かしていきたいと思っています。もちろん、国産のフルーツも存分に使い、美味しさの本質をこの日本で、日本の食材を追求していきたいですね。」

人生の転機となった二人のパティシエ。オークウッド横田シェフと巨匠ピエール・エルメ氏との出会い

ショーケース横に立つ吉田守秀シェフ

さてここで、吉田シェフが順風満帆で日本の、世界のトップステージまで立ち上がってきたようなストーリーをお届けしてきました。本記事の冒頭でも述べた通り、気づくと商業学校に通いパティシエの道へと進んでいた吉田シェフ。実はお菓子作りへのモチベーションが低かったと話します。お菓子作りへの熱いパッションをどのようにして持ち得たのか、お話を伺いました。

吉田シェフが「当時お菓子の知識もなく、モチベーションも低かったです。もちろん仕事だから知らなければいけないことは勉強します。そんな中で、僕のやる気スイッチを押してくれたのは、当時のパークハイアット東京の横田シェフでした。

当時の職場はみんなのモチベーションはコンクールに目線があって、そのためにコンクールでいかに勝つかを知らなければいけないという環境でした。気づいたら僕もコンクールをやらなければいけない流れになっていました。

僕は兄が美大だったこともあり、アートの面白さや造詣の深さは知っていました。だからこそ、洋菓子の世界のコンクールが小さいショーケースの中で、細かい規定があり、そこに疑問を持っていました。それってアートじゃないよね?と。コンクールは技術の大会。なんのためにコンクールをやるのかと周りに聞くと“みんながやるからやる”。わかりやすく結果が出て、先輩の後を辿りやすいものでした。お菓子って何か?と自分自身に問い掛けながらも、掘り下げていくとお菓子の“美味しい”というものの先にある部分が宗教的なこととか、様々なフランスの文化があることに気づきました。

そのタイミングで横田シェフからランチのデザートやガトーを考えるよう課題をいただきました。それがすごく悩んだ。知らないことも多くて、勉強しようと思った。自分が足りていないことが本当に多かった。

昔先輩になんでこういう風に作るんですか?と聞くと“その通りにやればいいんだよ”言われてずっと疑問を感じていた。お菓子作りにおいてロジックや知識が必要で、『知る』ということが本当に大事なことだと。知らないことを知ろうと思うと、また知らないことが2個出てくる。そこから僕のお菓子作りへの情熱は始まりました。

工房に立つ吉田守秀シェフ

実はフランスでやろうと思ったきっかけになったのが、バンコクのお寿司屋さんに行ったときでした。TVチャンピオンで勝たせてもらったときにタイでデモンストレーションをやる機会があったんです。そのときに招待してくださった公邸の方が、バンコクにも美味しい寿司屋があるので行かないかと言って連れて行ってもらい。そしてそのお寿司屋さんが全く美味しくなかったんです。美味しくなさそうな顔をしていたら“タイの有数の地域の米で、マグロも築地で教わった人たちが作ったものなの美味しいはずなんだ”と言われて、ハッとしたんです。

そのときに自分を重ねて“自分は今こういうことをやっているのではないか”と思った。心が大きく揺れ動く瞬間で、僕はフランスへ行くことを心に決めました。

その後フランスへ渡り、大きな自信をつけたのはフランスのテレビ番組「Le Meilleur Patissier les Professionnels」でした。2年連続の優勝でした。日本人が勝つという事が当時ありえなかったんです。例えるなら、フランス人の寿司職人が日本の寿司の大会で優勝するようなもの。

その時の審査員はあのピエール・エルメ氏でした。彼は、日本人でもフランス人でもなく、美味しいお菓子を作る人を勝たせたいと考えている人だった。ピエール・エルメ氏は、僕の道を切り開いてくださったような存在でした。」

若き菓子職人たちへ

最後に、吉田シェフから若い日本のパティシエたちへメッセージをいただくことができた。

吉田シェフ「モリヨシダができるなら、俺にもできると思ってほしいです。僕はチャレンジをしている。何もしなかったわけではない。人生チャレンジなんです。行動しなければ何も始まりません。言葉とかVISAとか大きな壁があるかもしれません。でもその言い訳をしている時間がもったいない。僕もかけずりまわっていたパティシエだし、実家が菓子屋なのでしぶしぶ始めた人間です。それを今の『MORI YOSHIDA』まで持って行ったのは、夢を実現したのは、すべてが『行動力』だと思っています。」

About Shop 
MORI YOSHIDA 東京店 
東京都中野区新井2丁目30-7 NSPビル 
営業時間:11:00~19:00 
定休日:火・水曜日 
Instagram:@moriyoshida_official 

Photo/Shintaro Ooki Writing/坂井勇太朗(ufu.編集長)