バレンタイン特別企画、有名ショコラティエによるチョコレートの面白さ・奥深さを体感できる「ショコラティエWEEK」もこれでラスト。今回は、編集長がずっと憧れそして会って取材をしたかった「洋菓子マウンテン」水野直己シェフ。名作とも呼ばれ、多くの人に愛され続けてきた「杏と塩」の知られざる誕生秘話と、ショコラティエだけではなく、数多くのパティシエたちからも敬愛されている水野シェフの“今”に至るまでの歩みを、存分にお届けしていきます。
ショコラティエたちのインタビュー記事、ラストをじっくりお楽しみください。
Q. シェフがお菓子の世界へ入るきっかけは、やはりお父様の影響が大きかったのでしょうか?
水野シェフ「はい。もともとサッカーが大好きで、今もたまにサッカーをやっているぐらいで学生時代は打ち込んでいました。そこからお菓子の世界へ入ったのは、父の影響で東京へ行った時のことでした。
ある時、家族で東京に行く機会があったんですが、旅行を満喫しようと思ったら、お菓子屋さんに連れていかれたんです。
そうしたらいきなり面接が始まって。石神井にある『おかしの家ノア』という店で、『なんだ、君はやる気あるのか』と言われて……なぜかその時に『はい、あります!』と答えてしまったのを覚えています(笑)。
そんな成り行きで、このお店でまさかの働くことになりました。ちょうど寮があったので、そのまま家族に置いてかれて就職ですよ。これが始まりです。」
Q. 「お菓子の家ノア」、「レストラン パリジェンヌ」を経て2002年渡仏とありましたが、フランス行きを決めた理由を教えてください。
水野シェフ「お菓子の世界で、ルセット(レシピ)にパータ・シューとかパータ・シュクレとかって書いてあるんだけれど、これって本当にフランスで同じように書いてあって同じ作り方をしているのか?って思ったのがきっかけでした。
親方には『フランスいっても意味ないよ、フランスに行っても美味しいもの作れないよ』とめっちゃ止められたので、『いや、俺は行きます! 今すぐ俺をクビにしてください!』と言ったのを覚えています。当時は23歳でシェフ、部下もみんな年上の人で、大抜擢でした。
親方からは『わかったわかった、2週間休みやるから行ってこい』と。その時に履歴書をフランス語で書いたものを20枚持って行って、配ったんです。
Q.「え、向こうに行くときにツテというか、お店が決まっていたわけではなかったんですか?」
水野シェフ「はい、もう何も考えていませんでした。パソコンで、自分でフランス語でどうやって履歴書を書くか?から始まって。なんとなく書いて“こんな感じかな?”と。そして、持っていきましたがこれがことごとくダメで(笑)。
だって渡しても、しゃべれないから何も進まなかった。ある時、ツアーをやっている知り合いから現地の人に会うとなって、その人について行ったら、『ここのパン屋さんならどうだろう?』と提案してくれて。そのお店へ行ったらちょうどオーナーがいて、『よし、いついつから来い!』となって僕のフランス時代が始まりました。パティスリーではなく、パン屋さんからでした。』
フランスのパン屋はクラシックなお菓子をやっている店もあったけれど、僕はずっとパンを焼いていました。それまではパンに近いものだとサバランとか、シュトーレンとか発酵菓子ぐらい。あとはレストランでフォカッチャを焼いたことがあるぐらい。でも、なんとなく原理はわかっていたので、だいたい生地の感じは一緒やなとか。
そんな中で、何を言っているかまったくわからないシェフと3日ぐらい、流れを教えてもらったんです。その時にそろそろこの生地、パンチしたらいいんじゃないかとか、この作業の間にこれができるんじゃないかというのを身振り手振りで伝えたら『お前パンのことわかってんな』と言われて、そこから仕込みを全部任されたんですよ(笑)
いやわからん、わからんって言ったけど『大丈夫だ、おまえはわかっている』とシェフに言われてパンをずっと作ることになった。焼くのはできないけど、仕込みは任せてもらっていました。バゲットの生地なんて、こんなの死んじゃうよってぐらい作った(笑)。まあ楽しかったですよね。」
Q.帰国してから、講師をされたのはなぜでしょうか? またそこから洋菓子のコンクールを目指した理由も教えてください。
水野シェフ「お菓子屋5年やって、レストラン行って、向こうでパン屋やって、また向こうでもショコラもやって、あとやっていないことってホテルか学校の先生かな?と思った。
お菓子の雑誌や本を読むとめっちゃ出てくるのはホテルのシェフばっかりだったんですよ。『あれ~!?』となって、コンクールも出て有名になっている、凄い人が多くて。そんな時に自分もできるんじゃないか?と思ったのがきっかけです。
コンクールをやりたいなと思ったときに、帝国ホテルの方とのご縁もあり、そこから製菓学校の校長先生とつながり、学校の先生やろうかなと思ったときに電話し『コンクールやりたいんだけれど』といったら『いいよ、いいよ』と。そこからは世界大会でも応援に来てくれて。学校の先生をやりながら、コンクールで優勝を目指すための準備や時間を、その校長先生のおかげで作ることができたんです。
コンクールが終わったあとに、『もういいよ学校やめて。ここで学ぶことないよ』といってくださったので『はい、帰ります!』といって地元の福知山に帰りました。
Q.大会で優勝し、なぜ福知山へ戻りお父様のお店を継ごうと思われたのでしょうか?
水野シェフ「フランスではどんな田舎の町にも立派なパティスリーがあって、その町の人たちがパリよりもうちの街のお菓子の方が美味しいと自分の街のパティスリーを誇りに思っているんです。この故郷である福知山に“そんな街の誇れるお店を”という想いもありますが、これってごく自然な考えなんです。子どもを育てるところも自分の地元で。奥さんも中学生の同級生でした。東京の人には、福知山に帰ることを止められましたね。店名も、お客さんのお店なので名前はかえませんでした。」
Q.「水野シェフの歩みを聞いたところで、これから優勝したワールドマスターズチョコレートと、その優勝作品となった『杏と塩』について伺えたらと思っています。そもそもこの『杏と塩』が生まれた秘密と、この縦長の形になって利湯を教えてください。」
水野シェフ「まずこの縦長の形は、審査員が二人一組なので半分に割って食べるだろうと計算し、あの形になりました。お客さんでもチョコレートをシェアして食べれるよさもあるし、誰かと一緒に食べてくださいというメッセージも込められています。
厚みもチョコレートの味がするようにボリュームを持たせていて、ナイフで切りやすく、すぱっと切れる。すごい技術でやっているというより、基本的なことを崩さないということも大切です。
みんなが食べたことがあるもので、一番美味しいものを作ろう、その考えがスタートでした。
そこでオレンジや柑橘はどの人も食べてきているし、その上をいくのが一番感動を呼ぶ。普段食べ慣れているもののほうがすごい組み合わせをやるよりも感動するじゃないですか。
白いご飯がすごい美味しいと、これは!と思うでしょ。味噌汁が美味しかったらすごく感動するし。
“記憶にぐさっと刺さるものを作る”そこが大事だと思っています。
水野シェフ「ワールドマスターズチョコレートの前にあったドイツの大会では杏子のボンボンショコラが評判よかったんです。本選までの半年ぐらいの間に、他のものにしようか悩んだんですが、結局杏子に。“杏子だけではダメだ、どうしよう”と思ったときに、塩だと気づきました。なぜか気づいたのか、フランスに渡る前にレストランで仕事していて、サラダの塩加減をすごく学んだ時期がありました。これってめっちゃ難しくて、最初は“そんなに違うか?”と思っていたけれど、その時の親方にこう言われたんです。
『根菜や葉に、心をこめて塩をふりなさい』
フランス行くまでの間だったので、長くはいなかったんだけれど、塩加減はすべての料理に通じるものだとその時すごく感じました。自分の中での塩というのは核になるものだったんです。
お菓子を作るときに、塩を使うタイミングやそれをかけたお菓子って全然なかったのに気づき、ボンボンショコラを作っているときに、『あ! 塩なんじゃないか』と。塩をつけて食べてみたらそれがすごくよかったんです。
そこから塩の研究がはじまりました。
ブルターニュの塩、ミネラルが高すぎて甘じょっぱくなるし、重たい。沖縄の海塩とか、粉砕した塩を使うも、飾りとしてはいいんだけれど、甘い塩は合わないなぁ~とか。
そこで出会ったのが死海の塩。結晶がかたくて、最後まで余韻が残る。今も使っていて、カカオ感、杏子の甘い香りとか、通り過ぎたあとに塩がきいてくる感じがしたんです。
そして塩を使うことで、唾液が誘発されて口の中がすっきりして“もう1個食べたい”そう思わせることにも成功し、実はこれって考えて考え抜いて作ったものなんです。」
Q.話は変わり、ワールドマスターズチョコレートで、優勝した時に何か裏話的なエピソードがあればぜひ教えてください。
水野シェフ「えっと、めちゃくちゃトラブルありましたよ(笑)。基本的にはどの大会もあるもので、現地で時間に追われて作る大会なので、制限時間内で何ができるか、ということもあるけれど、“材料がなくなる”ということが起きましたね。盗まれるとか(笑)。
僕のときにあったのは、杏と塩の上にのっている飾りに使う赤いラメの色素がなくなって……ピンチになって、その時にサポート役をしてくださるのが代々木上原の『アステリスク』の和泉シェフ。『兄貴すみません、赤のラメがなくなりました!』と言うと、バックヤードを走っていって、バックをばかばか開けて、オレンジのラメを持ってきたんですよ。
赤じゃなかったけど、このオレンジの色で優勝してしまったんですよ。
オーブンも共用で使うんだけれど、勝手に開けられたりもしましたね。」
Q.ちょっと話がそれるのですが、最近日本がチョコレートの大会であまりいいニュースを得られていない理由ってどんなところにあると思われますか?
水野シェフ「これは日本が持っている課題だと思いますが、ワールドチョコレートマスターズに限らず、国際大会に出て、現地でどういう空気が流れているかということを空気がよめるかが大事だと思っています。
結果を残している人って、現地での修行経験があるんですよ。今行われている大会で、何が起こっていて、運営側が何を求めているか、現地の言語でわかることが大事です。それって肌感じゃなく、現地の運営側と話して、盛り上げられるか、コミュニケーションが取れるか。
フランスでやる大会だったけれど、とくにアウェイという感じがなかったし日本の幕張でやる大会より距離感的には心理的にも近いものだったんです。運営側と会話ができるってかわいがってもらえるし、国名じゃなくて僕は“ナオミ”って呼ばれていたし、ノリみたいなものをつかんで、関係を構築することが大切です。日本チームの応援団の中に、僕と働いてくれた人がいたり。
『言葉の壁』
そこが日本の永遠の課題ですね。分野を問わずそう思います。もちろん、日本は技術でいえば世界トップクラスです。時代も変わっていって、僕らのときはフランス語が主流だったけど、今は英語ですからね。昨年は大会がライブ配信されていて大会運営が英語だから、今はもっとコミュニケーションを取っていくことが大変かもですね。
よっしゃ勝った!と思うけれど、味やクオリティーだけではなく最後はキャラクターも大事で、昨年のクープ・デュ・モンドで優勝したイタリアには“うわ~!!”っていって盛り上げた人たちがいた、そういう心象も大事なんじゃないかな。技術力もあるけれど違う部分もあるかも。」
Q.「サロン・デュ・ショコラ」へ参加されるきっかけを教えてください。
水野シェフ「実は、有名になってから呼ばれたんじゃなく、自分でチョコを持って行って、売り込みに行ったんです。チャンピオンの称号もあったけれど、最初はサロン・デュ・ショコラでは全然売れなかったんです。そんな苦い思い出もありました。会場ではひと箱ひと箱、お客さんに丁寧に説明したのを覚えています。でもそれが、今につながっていますね。自分が表現できるものを表現できる場所だと思っています。」
Q.師弟関係にある、プレスキルショコラトリーの小抜さん、nelの村田さん、それぞれ東京で活躍している姿をどう見ていらっしゃいますか?
水野シェフ「彼らはすごいですよ、東京という場所でやっていますからね。こうやってチャンスもらえて、自分たちがやっていることで評価されてお客さんもついている。そして、どこいっても『マウンテンの水野シェフ』とあいつらが言ってくれるから、僕も変なことできないですよね(笑)。そうやって僕のことを話してくれるうちが華というか、どこでも僕の名前を出してくれるということは僕にも価値があるんだなと、感じます。知りませんってなったら寂しいですよ。
うち(洋菓子マウンテン)を出た人間が、かかわった人間が活躍することで現存するスタッフのモチベーションになっています。目標が僕だけではなく“あいつら”になる。そういうサイクルがこれからも続いて欲しいですね。」
いかがでしたでしょうか? 今だかつてないロングランインタビュー記事をお届けさせていただきました。文章を書いていても、ものすごい時間がかかりましたが、多くの人にとってこのコンテンツで、幸せになってもらえれば。そんな思いも込めて、チョコレートの文化を広く、深く、貢献できれば。バレンタインデー本番まであと少し、チョコレートと一緒にチョコレートの世界を楽しみましょう。
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洋菓子マウンテン
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クリーム太朗
ウフ。編集長
編集責任者。ショートケーキ研究家として、日本全国のケーキを食べ比べる。自身でも、ケーキやチョコレートの製造・販売を目指すべく、知識だけではなく実技も鍛錬中
Photo&Writing/Cream Taro
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